昭和五十四年四月十一日 朝の御理解
御理解第四十六節 四十七節
四十七節はサブタイトルと云うことになります。
御理解第四十六節
「痛いのが治ったので有難いのではない。何時も壮健なが有難いのぞ」
四十七節
「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」
この四十七節は二、三日前も確か頂いと思うですけれども、祈りに明け暮れるこれが信心生活だと思うんです。ですからその祈りの中には勿論願わずには居れないことがいっぱいですから願いと云うことにもなります。お礼と云うことにもなります、お詫びと云うことにもなりましょう。その祈りに明け暮れて初めてほんとに信心の有難さと云うか、今日もおかげを頂いて有難いと云うしみじみとしたお礼の言えれる一日を締めくくることが出来ると思うんです。
だからその祈りに明け暮れするその内容は今申しますように願うこと、頼むことでいっぱいですし同時にお礼を申し上げること又はお詫びをさして頂くことになります。
そこでそのそういう祈りもさせて頂ながら心の古里と云うことは心を新たに生み為して下さったと云うか、ね、云うなら心をいよいよお育て下さる所としての教会。ね、ここに至って来なきゃならんと思うです。ですから教会は心の古里ですから、ね、なら昨日の御理解でしたかね、ここには信心の稽古に来る所と仰る。どういう稽古を頂くかと云うところにです、昨日の私のお夢の中から皆さんに聞いて頂きました様な千代田雪太さんと、千代田と云うのはお徳と云う風に頂きましたですね。何時の世までも云うなら頂ける何時の世でも遺しておけれるそれを千代田と。その御神徳を受ける為にいわば雪太でなければならない。ね、ほんとに雪の日の辛いとか冷たいとかそういう思いをする時にいよいよ心が育たなければ心が太く、太と云う字は太いと書いてある。いよいよ太らなければならない。ね、それがおかげを頂いても心が太らない人がある。ね、結局それはおかげ、だからここはおかげの頂き場と云うことになってくる。信心の稽古場になっていないわけ。ね、ここを信心の稽古場、ここを信心の云うなら心の古里、信心をいよいよ育てて頂く場としてのお教会。ね、そういう私は生き方がですね云うならば祈れ薬れだとこう思うんです。そして祈りに徹しさして貰う明け暮れる日日がです、ね、毎日毎日なら雨の日であっても風の日であっても今日も結構な修行さして頂いて有難い、今日夢にも思わないようなおかげを蒙らせて貰うて有難い。にも拘らずお粗末御無礼があったことに対するお詫びを心行くまでさして頂いて日日を締めくくって行く日日でありたい。そういう信心がね、いよいよ育って行くところにあのお広前は心の古里だと教会は心の古里だと云うことになるのです。ね、自ずと教会に足が向く、そういう信心を頂きたい。
そこでです、そういう信心の稽古の焦点と云うものがなら何処に置かなければならないかと。
昨日お月次祭の時にもちょっとお話さして頂いたんですけれども、椛目の妹がお知らせを頂いたと云う。左手に佐川光男と云う歌手の名前が書いてある。右手には荒川ばってんと云うなんかテレビに時々出る人らしいですけれども、その荒川ばってんと書いてある。ね、これは勢いと云うこと荒川と云うことは、云うならばもう勢いだと云うことだと思うんです。ね、いわゆるばってんとは天を貫くと云うこと。ね、それこそ天地を貫く程しのにはどうしても荒川の勢いが要ると云う事。ね、
佐川光男と云うことは、佐と云うことはね、人遍に左いわゆる合楽の事だと思う。佐川ね、荒川どちらも川である。光男光の男ですか、ね、まあ合楽の信心と云うてもよい私と云うてもよし、いわば皆さんはその荒川光男の云うなら荒川ではない佐田光男の信心を身に付けて居る。この二つが私はその合楽理念の中にあるんだと云う。ね、それを最近では合楽の信心が完璧とか足ろうたとか右と左が足ろうたと云う様に頂くんだとこう思うんです。だからそういう信心を私共が分からせて貰うてね、そういう信心が血になり肉になっていくとどういう事になりますかと云うとね、私は必ず使命感と云う様なものが育ってくると思うんです。その事を又妹が頂いておりますのに合楽理念は家修理するのと同じと云う風に頂いてますね。
合楽理念は家修繕、合楽理念は家の修理をする様なものと頂いている。合楽理念はね、だから合楽理念を大体云うならマスターする、合楽理念に依って心が育てられる、信心が育てられていくとどういう事になるかと云うとね、合楽理念はその家修理をしなければならない様なそういう特別な使命が私共にあると云うことが段々はっきり分かって来るんです。勿論家修理と云うことは、云うなら家と云う字は宇宙の宇ですね、云うならば天地です。私共の人間が住まわせて頂いて居る地球上に、ね、それこそ死相が現れたと云う程しのもの。寒い天寒い地。「寒天危地」それこそ膚に を感ずるような云うならそういう時代に突入して居ると、これをなら「歓天喜地」歓びの天喜びの地としていく云うならば行けれる内容を持って居る信心は金光教より他にない。金光教もですね、云うなら教祖の御教えを合楽理念に頂いていく、まとめてその合楽理念を以ってする他はない。「寒天危地」を「歓天喜地」とすると云う様な内容が説かれてあるのですから私共はそういう云うなら死相が現れたと言われておると云う程しの地球上にね、生き生きと蘇らせるカンフル注射の様な働きを私共がさして頂かなければならない。そういう意味で合楽教会はもういよいよそのまあ価値観と云うでしょうかね、が出て来ると同時に今迄の金光教も含めていわゆる宗教と云うものが価値観を失う程しの事が今合楽で説かれて居る。そういう大変な事を頂いて居る私達が自ずとそこに使命感が生まれて来なければならない。私は今日そのそういう使命感がと迄自分が思われる程しのです、例えばここで総代とか幹部とかと云う様に色々まあ役を頂きますと何とはなしに責任を感ずるでしょうが。ね、何々と例えば役を仰せつかるとやはりそこに責任を感じます、いわゆる使命感です。ね、だから合楽に御神縁を頂いて、云うなら信心の稽古をさして頂いて居る者、自分の心をいよいよお育て頂くことを願って居る者、まあそれを云うならばいよいよ御神徳を目指さして頂いて居る者、ね、そういう云うならば信心を目指さして頂く時にです自ずと合楽の信奉者一人一人がそういう神様の云うなら大使命が合楽に懸けられておるその合楽の私は一信者であると云う自覚が出来て来る。だからそういう風に段階を追って話たんですけれども、そういうものがです皆さんに出来てきよらんならば私は今日は祈りに只明け暮れすると云うだけではなくてね、内容がね乏しいものになる。私共はその云うならば家修理、ね、その云うならば破れて居る所を一針でもそそくらせて頂こうと云う、ね、家修理とね云うならば今こそね私の最近の願いが「世界総氏子身の上安全世界真の平和達成の御神願が御成就に相成ります様に」と、そしてそれは天地の事ですから私共には知りて知り難きことばっかりなのですけれども、その天地と私共が住まわせて頂いて居る人間世界と云うことの関わり合いに於てね、一分一厘のその間違いがあっても云うならばまあこれを科学者の話を聞きますといつもあっと云う間に地球と云うものが消えて無くなって仕舞う様な自体にならんとも限らんと云うことですよね。そういう現れが例えば南極に雪が降ったり、ね、北極に云うならば雪が降らなかったりと云った様なまあその地球上にそういう一つの異変の様なものがあちらこちらで云われておる感じられる。云うなら地球のS0Sである。ね、成程地球に死相が現れた程しのその地球を生き返らせる為には天地との交流天地との関わり合というものを云うなら天地の清まりと云うか、ね、破れておればそそくらせて貰おう壊れて居るならば修繕もさせて頂こうと云う様なここに宗教が必要なんだ。如何に宗教者が全部集まって天地の事を祈っておるの願っておると云うてもです、片手落ちの云うならば内容しか持たない宗教ではそれはもう烏合の衆と云うことになります。ね、で行足ろうた信心、そういう信心の云うなら一つの気配と云うかね、神様の目からご覧になればほんとに気配の様なもんでしょう。を、合楽に感じて居られる。そして今迄かつて伝えたことのない事を合楽の私共は頂いて居る。教祖金光大神の御信心と云うものが前代未聞開びゃく以来の宗教である、宗教以前の宗教であると云った様な事を合楽で頂いて分からせて頂いて居る程しのことなんです。ね、だから皆さんの一人一人がですね、云うならば天地清めのそうい使命感と云った様なものが育って行かんならん様に合楽理念では説いてあるんです。だからそういう事に気が付かなかったり迂闊であったりするとなら皆さんの信心は合楽理念を以っての信心がね、云うならその祈りに明け暮れて居ると云うこと、ね、一日を締めくくって有難いという心の状態の開けて来るそういう信心を合楽理念を基にして一日おかげを頂いて居る。その合楽理念を段々極めて行って居りますと、ね、そう云う様な大きな私共に使命が有るんだ又神様の願いが掛けられて居るんだと云うことを感じるようになる。ね、そこからの私は信心がですねでけて来た時に初めて教会が心の古里である、こういう大変な云うならお育てを頂いて居るんだと云う自覚に立たせて頂く。そして私どもが合楽理念の実験者合楽理念の実証者として最近最近じゃない今日私は頂いたことはここに関わりのある教会の事をずっとお願いをさして貰うんです。そしたらね、そのここに関わり合を持つ教会はね合楽理念の実験実証教会としてのおかげを頂かせて下されと云う願いに変わって居るです今日から。ね、合楽教会に関わり合を持つ教会、ね、全然手続きと云う様な事じゃないけれども、なら山口の西市教会なんかは最近あちらの教会に十三日会が始まった。云うなら合楽的云うならば信心がもう教会、もうこの頃から山口の支部の共励会の時にその行く途中に西市教会と云うのがあるみたい。大変な山の中ですそこへ末永先生行くたんびに先生を乗せて行く。教会に行ってから教会のもうまあ云うなら何ちゅうでしょうか、いろんな要らん道具を置いてあったりポスターが妙な風に貼ってあったり全部取って模様替えして来たち。まああんたどげんな事でもすんなと言うたことじゃったが、すっきりになってよかでしょうがと言う訳なんです。まあ合楽風にして来たと、ね、云うならばもう既にその家修理が始まりよる。ね、そして合楽理念と云うものがこの様にあらたかなものであると云うことを実証して行けれる教会としてお取立下さいと云う願いになってる。だから私共一人一人がですその実証者としてのおかげを頂く為に自分達の云うならばね模様替えをしなけりゃいかんです模様替えを。ね、こっから漏りよるね、こっから風が吹き込みよると云う所の修繕を先ずしなければいけんです。
祈れ薬れにすればおかげも早いがと云うことはね、今日皆さんに聞いて頂いた様な信心を先に立てると云うことなんです。昨日の御理解で云うと信心を追求する追いかけて行くと云うことです。ね、おかげを頂かんならん難儀から追いかけられておる様な信心では今日私が言う様なところは分からんと思うんです。分かってもその実感として頂けないと思う。その実感が私共にはそういう大変な天地の云うなら願いと云うものが私共一人一人の上に掛けられて居るんだというところにね、いよいよ合楽理念の実験者であり実証者としてのおかげを頂かせて下されそしてそのおかげを以っていよいよ真善美又は貧争病のない世界と云うものを先ずは自分が頂いてねこの様に素晴らしいんだと云うことを人にも伝えて行く為には自分がおかげげを受けなければならんと云うことになります。ですからね焦点をちょっと変えると云うこと。そして合楽理念を云うならば行じさせて頂いて居ると自ずと心の云うならばお育て信心のお育てを頂かせて貰うて分からせて頂くことは私共一人一人に掛けられておる御神願と云うものを感ずる。だから私に掛けられて居る御神願が何卒御成就に相成ります様にと云う様な信心になって来る訳でございます。総代さん達が毎朝ここでお届けをされる。ね、合楽に掛けられて居る御神願が私共一人一人に掛けられておる御神願がどうぞ御成就になります様にと云う祈りの内容がです云うならば合楽のお広前こそ私共の心の古里だ、ね、とにかく慕わしゅうて慕わしゅうてと感じるお広前と皆さんとの関係と云うものがです濃く密になっていかなければならないと云うことでございます。ね、まあ皆さんも云って居りますね私共に掛けられた御神願が成就、だからそれをほんとにその一人一人がです、ね、感じてそういう使命感に立って例えば総代幹部の方達建築なら建築の事毎日会合がありよります。ね、そしてそこに感じることであろうと思われることはとにかくやはり総代として幹部としての使命感であろうとこう思うです。ね、そういう祈りがもっと色々多く合楽の一人一人に掛けられる云うならばね宇宙と云う大きな家の修繕に私共がお使い回しを頂かなければならんと云う様な心が育って参りましたらいよいよ信心は有難いもの云うならばお広前は成程心の古里であると云う思いも強くなって来ることだ思います。どうぞ。